コンテンポラリーとしてのクロスオーバー

 

新譜《リーフ・ビートルズトランスクリプションズ》では、5人の作曲家によって6曲のビートルズナンバーが編曲されている。各作曲家のアプローチはさまざまだ。大のビートルズ好きだった武満徹の曲には、有名な彼のギター独奏用編曲とはまた一味違う、彼独特のあの、間の感覚と和声感覚が結晶のようにちりばめられている。坂本龍一は、ジョン・ケージや他の現代音楽作曲家の例に見られるように、スコアに基づき奏者がある程度自由に演奏するよう指示している。各作曲家が自分の技量をビートルズにいかに託し、いかに展開していくか、そしてビートルズソングを何気なく耳にしている私達の前に、ビートルズメロディがいかに化けて現れるか――いわば原曲を知っていてこそ楽しめる編曲の面白さが、このアルバムにはあると思う。
 
さて、ピアニストであると同時にプロデューサーでもある私は、レコーディングセッションでは実験的なことを嬉々として率先してしまうタイプだ。マイクセッティング、ホールやピアノ選びへのこだわりをはじめとして、ピアノの下に「レベノー・リッド」と呼ばれる第2の反響版を取りつけたり、ピアノの蓋の開け方もいろいろ変えてみたり。今回のこのアルバムの録音ではしかし、私のその通常の域をもはるかに超え、ピアノの音色も楽器の調整によって4種類も用意してもらい、結果4分足らずな曲でも15回以上もテイクを重ねるという凝り性ぶりを発揮してしまった。

 

スコアのメモより

ゴールデンスランバー(武満徹編)
第一印象ではテイク1がベスト。ブライトで硬質な音質と開放感、予期せぬ和声展開と浮遊性を強調。間もかなりとって、少しでも武満らしさが出るようにした。繰り返しでは、同じ明るい色合いでももっとストレートなテイク2か3にエディットして変化をもたせるか、それともメロディを強調して比重をビートルズらしさに置いた他のテイクにすべきか、悩むところだ。

ミッシェル(バーバラ・モンク=フェルトマン編)
一番暗い音色のテイク181〜183がよい。183が全体的にベストだが、アンニュイ感が色濃く出過ぎているので、ともすると平坦さと紙一重になりかねない。冒頭のみ、もっとビートルズの歌心のある182 にすべきか?

ヘイジュード(岡城一三編)
冒頭は音色が中間色のテイク33〜42、後半は明るい音色のテイクで。ルバートのかけ方次第で曲の印象ががらりと変わる。かけすぎると、まるでビートルズを忘れた酔っ払いみたいだし、かけ方が足りないと、編曲のもつ色合いのおもしろさが出ない。

 

数多くのテイクを重ね、4種類の異なる音色を実験し、様々な解釈、ルバート、バランス、ニュアンスを試みたのは、演奏の微妙なさじ加減によって同じ曲でも全く様相を変え、別なものに変化してしまうものなのだという、演奏者としての自覚があったからである。ビートルズをどうとらえるか、編曲のスパイスをいかにどこまで効かせるか、更にはアーティストとして自己をどう表現するか――ピアニストの調理のしかたによって、テイクの数だけ新たな表現の可能性が生まれてくる。武満徹は、ポップスや映画音楽に携わる理由を「自由へのパスポート」という言い方で述べたが、正に言い得て妙だと思う。いわゆる純クラシック音楽は、よい意味でも悪い意味でも聴き方を限定してしまう。私達の耳にはかなりある種の「定型」がインプットされていて、その「定型」との比較対照という作業がクラシックにおける「聴く」ことなわけだ。音楽が必然的に内包する解釈というものがあり、演奏者もそこにこだわって表現を組み立てていくことになるのだが、クロスオーバーの音楽は、それとは逆に、演奏者のアプローチ次第で無限の解釈が可能となる自由で知的な遊びを提供してくれる。そこには、コンテンポラリーな全く新しい音楽分野として編曲を聴いてほしい、そしてクラシックとポップスの融合・対峙から生まれる新しい可能性の世界を感じ取ってほしいという創り手の思いが込められているのである。遊びの自由があるからこそ、各編曲者の作曲家としての原点がかえって明解に、透けて見えてくるというのも、また興味深いことではないだろうか。さまざまな形で「自由」にこのCDを聴いていただければこれほど嬉しいことはない。