鎌倉公演によせて

岡城千歳

ライブコンサートはノリノリで弾けて楽しいけれど、聴衆のいないレコーディングは硬くなってしまってどうも苦手、という演奏家は多いようだ。わたしもそんな質問をインタビューでよくお受けするが、「レコーディングは大好きです!」といつも答えている。ピアノのセレクションやマイクの位置から楽器の蓋の開け方まで、セッションでは、かなり細かいことにも嬉々として凝ってしまうタイプなのだ。録音には音の記録という意義があるが、その記録という単なる意味をこえてクリエイティブになれるのがレコーディングの面白さである。時間を必然とする過ぎてゆく音は取り返せないものだったのだが、録音という文明がそれを一変させた。音楽、イコール時間芸術という枠を越えるという点で、アート形態の変換をなしたといえよう。編集やスタジオでのマスタリングにおけるセッション終了後の音の操作は、CDの音楽の制作作業がむしろ、作家や画家の創作課程に似ているという特徴をもたらした。一歩下がって全体の絵を眺めたり文章を練り直しながら推敲していくように、演奏を組み立てていくということも編集作業を通じて自由自在になった。それは演奏解釈や音符の正確さに対する人々の意識といったことに大きな影響を与え、レコーディングというものがなかった時代には見られなかった演奏スタイルや新しい音楽のあり方の可能性を引き出したのだった。グレン・グールドがその最も有名な例だろう。


レコーディング好きのわたしとしては大変な矛盾なのだろうが、それに引き替え家でCDを聴くときは大抵、コルトーやラフマニノフ、フリードマン、ソフロニツキーなどのヒストリカルレコーディングものを聞いている。自由奔放なルバート、心に染み入るような語り口、問いかけてくるような弾き方、匂いたつような柔軟性ある音など、昔のピアニストのあの特徴がすごく好きである。録音技術のレベルは勿論、現在と比べものにならないが、非常に貴重な宝物が大切に音に秘められているような演奏を聴く度に、思わずため息が出てしまう。彼らは私のアイドルといったところだろうか。現代のコミュニケーションの新しい可能性として録音という媒体を信じている私だが、昔のアーティストを聴くと、逆に少し複雑な気持ちになる。演奏スタイルが時代とともに移り変わってきた様子に触れると、聴衆とのコミュニケーションの原点としては、世界的に規格化されたような現代の演奏よりも、むしろタイムスリップした個性的なもののほうが好みだなあと思ってしまうのだ。録音というものが演奏スタイルに与えてきた影響というのは案外大きかったのだろうか。もしコルトーがよみがえって現代の録音技術でレコーディングするとしたら?昔の演奏スタイルは、なぜ現在ではこんなに完全に失われてしまったのか?なんでコルトーのルバートで現在弾いちゃいけない?

こんな矛盾を抱えた私だが、コンサートで弾くのはすごく楽しい。スクリャービンは視覚・嗅覚や味覚まで含めたあらゆる感覚を総合した音楽を計画し、幸か不幸か、完成を待たずして逝ってしまったが、五感に訴えるように音を直接体験できる時間を持てるのがコンサートの醍醐味だ。ピアニッシモだって、セッションのときとコンサートのときでは奏法が違う。どんな弱音でも会場の最後の列まで響かせ、会場の響き具合や空気にのせていくのがコンサートの魅力の一例だろうか。今回大変楽しみにさせていただいている鎌倉での演奏会では、坂本龍一、武満徹、モーツァルト、ショパン、シューマン、ドビュッシーからスクリャービン、バーバーまでのさまざまな曲目をカレイドスコープ的に並べてみた。作曲の発想が根本的にピアノという楽器に根ざしており、ピアノ書法と楽器の音色の可能性に貢献した作曲家ばかりである。プリズムのようなピアノの音色で満たした時間と空間を鎌倉の皆さんと共にし、古典から現代までさまざまな料理をフルコースとして味わっていただければ本当に嬉しい。囁くような音、触れれば割れそうな音、色鮮やかな音・・・音楽の世界だけにとどまらず、音をこえてさらに広がる世界があってこそ、ピアノを弾くことが真の創造行為になる、と肝に銘じている。