“バッドボーイ” プロコフィエフ

 

ムストネンのトレードマークはその大胆な解釈と演奏ぶりだが、彼のプロコフィエフピアノ協奏曲第3番のDVDを見た時は妙に得心してしまった。ムストネンのダイナミックな自己主張がプロコフィエフを新しく見せるとともに、これこそプロコフィエフではないかと思わせるものがあった。弾いている際の肉体的感覚と音の実際の聞こえ方の関係は演奏家それぞれ、また作曲家それぞれ固有なものだが、例えば最近再評価されたゴドフスキーは恐ろしく弾きにくい割に悲しい哉、その事を知らない聴衆にはそんなに難しそうに聞こえない。ラフマニノフは非常に合理的な譜面で、音の多さと比例して聴衆の感銘度も増すし派手に弾き映えする。プロコフィエフは効果的に聞こえるし不協和音のアグレッシヴ性と独特の強い推進力はアピール力高いにもかかわらず、実際に弾いてみると音そのものは案外層が薄く、単音でつんざくような音を作らなければならないところは多い。ムストネンはその辺の読みが深いのだろう。手の中に収まるよう実利的な譜面を書きピアノ書法に精通していたピアノの名手プロコフィエフだが、不思議にも優れたピアニスト兼作曲家特有の「ピアニスティック」な発想を追求し突き詰めていった様子はないのだ。
 
 プロコフィエフのポピュラリティの高さは彼の玄人的職人精神に基づく。古典性、ロマン的叙情性、表現主義、アイロニー、ユーモアなど様々なテクニックとイディオムの効果的駆使によって幅広い層にアピールし大衆の心を掴む術を知っていたし、より新しいもののために伝統を否定することを潔しとせず、伝統への既存をむしろ深く尊んだ。独自の理論システムを法則化していく方向を故意に避け、革新と古典を共存させ、この”決して究極化しない”という姿勢こそプロコフィエフの本質ではないかと思われる。ピアノソナタ6番を書いた数年前には「音楽は不協和音のもちこたえられる最大の限度まで来たのだから、もっとシンプルでメロディックな表現こそが未来の音楽の避けがたい方向だと確信している」と発言している。突き詰めるということは物事を先鋭に最終化するが同時に排他的に限定化するものであり、彼はそれを意図的に避けもっと別なものを求めたのだ。「プッチーニがよい例です!彼はそのメロディのためポピュラーなのですし、それは長い間耳に慣れ親しんだ音程と和音のカテゴリーに一致するからで、耳が慣れ親しむということは受け入れるという習慣性の問題なのです。ワーグナーの神々の黄昏はかつてものすごい不協和音と捉えられていましたが、今やメロディに満ちていると見なされているのです。音は同世代に拒絶されても、次世代にはメロディとして受け入れられるのですから!」スクリャービンやシェーンベルクの如き自己の方向付けは一般受けし辛いがラフマニノフはすんなり受け入れられる事を承知していたのだ。
 
 リムスキー=コルサコフが演奏会の途中で席を立つほど前衛的な「スキタイ組曲」を書くかと思えば、コミッションの要請に応じて「シンデレラ」のように”ダンス可能な”分かりやすい領域に自分をアジャストできる驚異の能力の持ち主であるプロコフィエフの器用さと幅広さに困惑ぎみな時もあった。しかしそれはあまりにも多種多様な音に慣らされた現代の私達の耳の責任でもあり、彼ほど他の作曲家のスタイルを吸収しながら同時に自己を確固として表現した作曲家は類を見ない。調性崩壊前後の作曲家達が新しい独自の語法を確立しようと躍起になっていたプロコフィエフの時代に、独自の語法の確立と自らを見出す事とを同意義化する事に反旗を翻し、いわば音楽史におけるブラームスの役割のように表現を見出すことにかけた、それはダンディでバッドボーイとして知られたプロコフィエフの、社会への反骨精神なのかもしれない。現代まで続く調性崩壊後のカオスはモーツァルトの時代の作曲態度とは異なるのだ。それはそのまま、現代に生きる私たちへの警鐘なのだろうか、楽譜からそれを読み取ることが答えなのだろう。